シャンペイン・スーパーノヴァ

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 君はあのクレイジーな体験のあと、無事に日常生活に戻ってきた。以前と何ら変わりない、ありふれた日常だった。決まった時間に起き、シャワーを浴び、髭を剃り、服を着替えて、満員電車に乗り込む。世界は君がいてもいなくてもお構いなしであるかのように移ろい続けていた。それでもしばらくの間君の中には何か予感めいたものがあった、あの体験のおかげで何かが変わるんじゃないか、ってね。しかし日常はそんな君の希望をいつまでも残しておいてくれるほど優しくはなかった。君は君の日常の中で、あの旅の途中に確かに感じていた実感のようなものをいつの間にか失くしてしまっていた。まるで砂浜に書かれた絵が波に洗われていくみたいに。今、君の目の前には見知らぬ女がいる、銀色の大きなイヤリングをして、大きな声で何かを叫んでいる。女の手にはシャンパングラスが握られている。女の周りには君以外にも何人もシャンパングラスを持った人間がいた。乾杯!イヤリングの女がそう叫ぶのと同時に、君は手に持ったシャンパンを飲み干す。君は勢い余って倒れそうになるが、それがこのパーティで飲んだプール1杯分の酒のせいなのかすらわからない。DJがイギー・ポップの”ラスト・フォー・ライフ”を流すと、君は雄叫びを上げ狂ったようにダンスホールの真ん中に繰り出す。ビートに合わせてステップを踏もうとするが、視界が定まらず、何度もつまずきかけた。ここにいる連中全て、くだらない欲望と快楽に身を任せる刹那的な人間ばかりだった。そう、間違いなく君はそこにいたのだ。爆音とアルコールが君をどんどん別の世界に押し流していった。しかしそれは君が体験したあの啓示めいたものとはまったく違ったものだった。朝の6時過ぎにパーティが終わり、君はふらふらの頭とよれよれのシャツのまま、近くのファミリーレストランで友達とぬるいコーヒーをすすっていた。胃袋が砂でも詰めたみたいに重たかったが、ビールとテキーラシャンパンとレッドブルでいかれた君の頭では、その原因を突き止めることができなかった。昨日食べた激辛カレーのせいか、仕事のストレスのせいか、睡眠不足のせいか、さっき飲んだ酒のせいか。
「俺さ、新しい車買おうと思ってるんだけど」友達が君に話しかける。
「ふーん、どんなの?」君は返事をするが、君は車になんて興味がないし、早く帰りたくて仕方ないのだ。
「レクサス、今の年収ならギリギリ行けそうなんだよね」
「いいじゃん、買ったら海にでも連れてってよ」
君はファミリーレストランの前で友達と別れ、ふらふらの頭のまま家に帰った。朝日が昇りきってしまう前に眠りたい君は、着替えもろくにせずに睡眠薬を噛み砕き、アイマスクをして横になった。君はこんなことをして日常を浪費するべきではない。眠りにつくほんの一瞬前、辛うじて生き残っていたまともな君が顔を出す。しかし睡眠薬は容赦なく君の意識を奪っていった。

 

 君は結局のところ、あの体験ともう一度きちんと向き合う必要があるとわかっていたのに、日常の忙しさを言い訳にしてその事から逃げていただけなのだ。あの体験をただのトラウマとして心の奥に封印してしまうのは簡単だった。しかし、あの体験に肯定的な解釈を与え、これからの人生に役立てる必要がある事も君にはわかっていた。それをやるしか、君に残された道は無いのだということも。思い返せばいつの頃からか、君の身の回りの全ては確実に狂いだしていた。アル中の父親は君とまったく喋らなくなった。母親はスピリチュアルに走り、わけのわからない商材に高いお金を出していた。君は高校も大学もドロップアウトし、ブロンや酒や睡眠薬に逃げる日々を送っていた。職場の人間関係は最悪だった。全ての人間が君を嫌っているように感じられた。


 君の心の支えは一緒に暮らしていた祖母だった。働きに出ていた両親の代わりに、祖母は君の面倒を本当によく見てくれた。君が学校に行かずにブロンを飲んでいても、どん底の気持ちで一日寝ている時も、祖母は何も言わなかった、何も言わない代わりに、いつも優しく微笑んでいた。


 祖母の遺体を最初に見つけたのは君だった。君はいつものメンバーといつもの中華料理屋で朝までかけてビールの空き瓶の山を作り上げた。ふらふらの状態で家に帰り、ドアを開けるとそこには変わり果てた祖母の姿があった。医者は急性の心不全だと言った。祖母の葬式で君は泣けなかった。何故だかはわからなかった。父と母は泣いていた。君はこう思った、なんでお前らが泣いているんだ?怒りにも絶望にも似た感情がぐるぐると君の中を渦巻いていた。葬式が終わり、家に帰った君は、祖母の部屋で何かを見つける。それは子供の頃君が高知県に行った時に祖母にお土産として買った坂本龍馬のフィギュアだった。君はこんな何年も前のお土産がまだ祖母の部屋に残っていたことに驚いた。そして気が付くと、君は声も上げられないほど泣き崩れていた。


 祖母は君が小さい時、ムカデに噛まれた君を病院まで連れて行ってくれた。よく一緒にお風呂に入って、一緒に歌を歌ってくれた。君の祖母はとにかく綺麗好きだった。毎日毎日、儀式のように家中を掃除していた。よく君にお小遣いをくれた。毎晩夕飯を作ってくれた。下手くそなカラオケをよく練習していた。携帯の操作を教えてくれとよく君に頼みに来た。君は祖母を何の疑いもなく愛していたし、祖母も君を愛していたんだ。変わらないと。そう、そこで君はようやく前を向く決意をしたんだ。

 

 君は何年か前にブログを始めた。当時好きだったブロンとかコンタックとか音楽の事を書きたくて始めたブログだったが、いつの間にか全く更新しなくなっていた。君はそのブログでこの一連の出来事を記事にしてみようと思った。誰が読んでくれるのかはわからない、とりあえず君は君自身のために、文章を書く必要があったのだ。あの体験を文章にしているうちに、君は今まで気づかなかった色んな事に気づき始めた。自分の無意識から言葉が出てくる一瞬を、君は逃さないように慎重にタイプし続けた。いつの間にか、全ての物事がマイナスからプラスに傾き始めていた。君は以前よりポジティブに物事を捉えられるようになった。すべては自分の内面で起こっている事なのだと君は分かり始めてきた。ある時君は勇気を出して久しぶりに両親に話しかけてみた。最初はぎこちなかったが、そのうちごく自然に会話できていた。固く凍った氷が、ゆっくり溶け始めたような感覚を君は覚えた。職場の人たちも、ちゃんと話してみれば君が思っていたような人間では無いことに気がついた。ツナガッテイル。いつの間にか君は両親を、他人を許せるようになっていた。そして、君自身の事も許せるようになっていた。今、君は青白く光るスクリーンを眺めている。なんでここにいるのか、自分はどこから来たのか君はまだ思い出せないでいる。でも、漠然とだけど、ぼんやりとだけど、君の中で何かが変わるような気がしている。

 

「うーん、色々あったけど、君は前を向く決意をしたみたいだね。おっと失礼、もう始まっているんですね。(咳払い)さぁ、このお話はこれでお終いです。どうでしたか、楽しんでいただけましたでしょうか。ここで我々からも一つメッセージを送らせてください。これは、紛れもなく君の物語なんです。君は今回の出来事から忘れかけていた様々なつながりを思い出しました。もちろん我々もそのつながりの一部です。君が悲しめば、我々も悲しむし、君が喜べば、我々も一緒に喜ぶのです。我々は最初からつながっています。それを忘れないでください。では、最後に一曲お聞き下さい。オアシスで"シャンペイン・スーパーノヴァ"」

 

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