ありふれた失恋の話

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気まずい沈黙の間で、周りのテーブルの賑やかな音が行き場を失くして消えた。

君の飲むグレープフルーツジュースの氷がカラカラと音を立てて崩れた。

食事を終えた僕は黙って君の後ろにある大きな窓の外を眺めていた。

季節は冬で、街にはいたるところにイルミネーションが施されていた。

街を歩くカップル達はどこか浮足立って見えた。

走り去っていくタクシーや、残飯をあさる野良猫でさえ、どこか楽しげに見えた。

僕たちは相変わらず沈黙を続けていた。

店員が水のお代わりを注ぎに僕たちのテーブルにやって来た。

その店員はどこか緊張しているように見えた。

あるいは僕たちが彼を緊張させたのかもしれない。

メイヤー・ホーソーンの”シャイニー・アンド・ニュー”が流れていた。

素敵な曲だった。

この曲が僕たちの気まずい雰囲気を吹き飛ばしてくれたらいいのに。

そう思った。


もう行こうか。

僕がそう告げると、君は黙って頷き、残りのグレープフルーツジュースを飲み干した。

そしてグラスに付いた口紅を親指でそっと拭き取った。

君は僕に何か言いたかったのかもしれない。

その仕草を見ていたら何故だかそんな気がしてきて、僕はたまらず大きな深呼吸をした。

 

店を出て、僕たちは並んで駅まで歩いていった。

寒かった。

僕は黙って彼女の手を握った。

彼女はそれを拒まなかったが、喜んでいるわけでもなさそうだった。

改札の前で僕たちは別れの挨拶をした。

僕は君に何か言おうと思ったが、言葉が出て来る前に、君は人混みの中に消えてしまった。

 

 

 

 その時ふたりは18歳で、膨らみ続ける自意識や、容赦なく広がる世界の大きさにただただ圧倒されていた。大人と呼ぶにはあまりにも未熟だったし。子供と呼ぶにはあまりにも年を取りすぎていた。ふたりは大きな過渡期の真っ只中にいたのだ。あらゆる物事が濁流のように押し寄せ、ふたりをどこかに連れ去って行こうとしていた。ふたりはその濁流に押し流されてしまわないために、お互いを必要としていたのだ。

 

 

 

一度、二人で海に行ったことがあった。

よく晴れた8月の日のことだった。

当時は車を持っていなかったので、電車で海まで向かった。

僕たちはビーチハウスで自転車を借り、海岸沿いをあてもなく走った。

潮風を浴びながら、僕は君の後ろを自転車で追いかけた。

波の音。

蝉の声。

風になびく君の黒い髪。

潮の匂い。

皮膚を焼く太陽。

どこまでも続くアスファルト

君の白い肌。

君の笑顔。

そんな何もかもが生命力と喜びに満ち溢れていた。

僕はただ幸せだった。

 

自転車に飽きると、僕たちはビーチハウスに戻りかき氷を食べた。

ビーチハウスではオリジナル・ラヴの"ヴィーナス"が流れていた。

僕たちはぼんやりとその曲を聴いていた。

 

 

"溢れる光に 包まれて 僕たちは 影を見失った"

 

 

しばらくビーチハウスで休憩したあと、急に海に入りたくなった。

二人とも水着を持ってきていなかったが、そんな事どうでも良かった。

僕たちは裸足になり、短パンの裾をめくり、脚に波が当たる感触を楽しんでいた。

 

突然君が水をかけてきたので、僕はそれに応戦した。

キャッキャと笑いながら僕たちはびしょ濡れになっていた。

それから僕たちは泳ぎ、触れ合い、笑いあった。

君はまるで女神だった。

太陽はそんな僕たちを祝福してくれているように思えた。

ひたすらに青い空の下で、僕たちは二人きりだった。

僕たちは確かにつながっていた。

僕たちの周りには相変わらず色んな問題が未解決のままごろごろ転がっていたが、その時は全てを忘れていられた。

僕たちはあの時、二人だけの楽園を確かに作り上げたのだ。

二人でいれば、全てが許される、全てが輝き続ける、全てが望み通りになる、そしていつでも笑っていられる。そんな楽園を。

 

 

 

 

 いつの間にかふたりの間のあらゆる物事は修復不可能な段階に来ていた。ふたりともそれを分かっていたが、結論を出すのをずるずると先延ばしにしてきた。理由は簡単だ、ただ怖かったのだ。ふたりはあまりにも長い時間を一緒に過ごしてきたし、それは簡単にくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てられるような種類の物事ではなかった。それでも、先に覚悟を決めたのは君のほうだった。ある日、君は僕を駅前の喫茶店に呼び出した。嫌な予感がした。そしてその予感は的中した。

 

 

 

 

茶店のテーブルで、相変わらず僕たちは沈黙を貫き通していた。

二人ともコーヒーを頼んだが、ひとくち飲んだだけでもう口を付けることはなかった。

僕には君が今から何を言おうとしているのか分かっていた。

分かっていたが、受け入れたくはなかった。

もし今君を失ったら、僕は巣を埋められたアリみたいに、行き場を失くしてしまうだろう。

そして濁流が容赦なく僕を引き裂いてしまうだろう。

 

痛いくらいの沈黙だった。

 

心臓の音が聞こえそうなほどだった。

 

君の瞳は真っ直ぐ僕の方を向いていた。

 

それは息が詰まるくらい美しい瞳だった。

 

僕は初めて君を目にした時の事を思い出した。

 

その瞳に吸い込まれるように僕は恋に落ちたのだ。

 

 

何故、君はこんな時でさえ綺麗でいられるんだ?

 

 

何故君は、最後の最後くらい、醜くあってくれないのだ?

 

 

 

君の淡いピンクの唇がゆっくり開かれる。

 

 

 

僕は君のそのやわらかな唇に初めてキスした日の事を思い出した。

 

 

 

白い歯が唇の隙間から覗く。

 

 

 

 

 

時間が止まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

別れてほしいの

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕の耳は確かにそれを聞き取った。

 

 

 

しかし脳はそれを上手く処理することができなかった。

 

 

 

いや、処理するのを拒否していた。

 

 

 

エラー・無効なコマンドです。

 

 

 

僕は何も言えなかった。

 

 

 

ただ、黙って頷いた。

 

 

 

そして、君は僕の前から姿を消した、僕の心に大きな穴を残して、美しすぎる思い出を残して。

 

 

 

 

 

 結局、全ての物事はただ流れ去っていくだけなのだ。僕たちはこの濁流の中で、確かにお互いを見つけ、恋をした。いつかは流れ去ってしまうとしても、僕たちは二人だけの楽園を築き上げた。そして、同じ時間を過ごし、あらゆる物事を共有した。僕は君を愛していたのだ。それでも全ての物事は流れ去ってしまった。このまま僕はどこに向かうのだろう。今頃君は何処にいるのだろう。流れ着いた先に一体何があるのだろう。僕はしばらくこの流れに身を任せていようと思う。この先に何があるのかはわからないけれど。そして時々は君の事を思い出そう。悲しい物語ではなく、美しい物語として。