夏の終わりの短い夢

 僕はピアノの音に耳をすませていた。西日の差し込む部屋に、君がぎこちなく弾くピアノの音が静かに染み渡っていった。僕はソファに横になり、いくつもの音が浮かんでは消えていく様子を頭に思い浮かべた。僕の頭の中で何かざわざわした感触があった。僕は遠い遠い昔に、確かにここにいたような気がする。ピアノの音、差し込む西日、ここはどこだ?君はまだピアノを弾き続けていた。君は何度も何度も同じメロディを弾いていた。その響きの中に隠されたメッセージを解読しようとしているかのように。そのピアノを聴いていると胸が締め付けられるように痛んだ。もう長いこと眠ったままになっていた記憶、無理やり心の奥にしまい込んでしまった記憶を、ピアノの音が呼び覚まそうとしていた。やめてくれ。だが君はピアノを弾くのをやめなかった。さぁ、あなたは思い出さなくてはいけないのよ。辛くても、苦しくても、あなたは失ってしまったものを取り戻さなければならないのよ。僕が一体何を失ったと言うんだ?僕に一体何を取り戻せと言うんだ?僕はここにいて、君はここにいて、それで十分じゃないか。もうやめてくれ、これ以上僕を苦しませないでくれ。さぁ、思い出して、私はこの季節が終わったら消えてしまうのよ、それまでにきちんと思い出して。突如、抗いがたい睡魔が僕を襲った。意識の隙間に、ピアノの音が入り込んでくる。そして、残響音が僕の記憶の扉の鍵を開けた。かちゃん、と礼儀正しい音がした。

 

 ついこの間まであんなに元気に鳴いていたセミたちはどこに行ってしまったのだろう?入道雲も、夕立も、陽炎も、みんなどこへ行ってしまったのだろう?僕は静かな湖の畔に座り、そんなことをぼんやりと考えていた。湖面が太陽の光を反射しきらきらと輝いていた。いや、もしかしたらそれは太陽じゃなく月だったのかもしれない。いつの間にか隣に君が座っていた。君は遠くを眺めたままじっと黙り込んでいた。君は僕をこの先もずっと覚えていてくれるだろうか。僕は僕たちが確かにここに居た証を残したくなって、君の頬にキスをした。君の表情はうまくわからなかったが、その横顔の美しさが強烈に僕の心をかき乱した。しばらくすると君は何かを思い出したかのように立ち上がり、湖の方へ歩いていった。おい、どこへ行くんだ。僕は声をかけるが君には届いていないようだ。君はどんどん湖の中に入っていく。僕は君を追いかけ、君を取り戻そうとする。君を失うわけにはいかないんだ。しかし、湖に足を入れた瞬間、すべての景色が反転してしまった。波は荒れ狂い、猛烈な風が僕の行く手を阻んだ。太陽も月もいなくなり、もはやどんな光もここには辿り着かない。君の後ろ姿は波と飛沫に覆い隠されてしまっている。僕は最後に君の名前を叫ぼうとした。せめて最後に、君に振り向いて欲しかったのだ。すべての力を腹に込め、喉まで声が出かかった瞬間、僕は愕然とした。思い出せない、君の名前は何だ?

 

 目が覚めた。僕は部屋のソファで横になっていた。太陽は今では沈みかかり、頼りない光が微かに部屋の中をさまよっていた。体中が汗でじっとりと濡れていた。またこの夢か。僕はため息をつき、ソファから起き上がる。僕は君の弾いていたピアノの鍵盤に触れる。演奏用の椅子に残っていた君の温もりを確かめる。窓を開けると涼しい風が部屋にやさしく入り込んできた。外では一匹の鈴虫が何かを告げるように鳴いていた。それ以外には何も聞こえなかった。もう夏は終わってしまったのだ。

 

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