脳内実況タイプ ー幸せについてー

 日曜日の昼過ぎ、今日は一日何も予定が無い。特に書きたいことがあるわけでは無いけれどこうしてパタパタとタイプを続けるのは、自分がどこかとつながっている実感がほしいからなのか、単なる自己顕示欲からなのか、承認欲求からなのか。自分の心のありかたに常に気づいていたいと思うけれど、それはなかなか難しく、今こうしてタイプしている理由も自分ではっきりしないまま。そんなぼんやりした感覚を言葉にしてみたいのかもしれないし、実際のところはよくわからない。

 

自分の文章について

 と、ここまで書いて完全にタイプする指が止まった。書きたいことを探そうとするといつもうまくいかないのだ。ブログを書くときは大体こういうテーマについて書こうと決めてから書きはじめる。でもたまにはこんな風に文章を書くのも良いかもしれない。2,3年前くらいにマックブックのメモ帳でこういう文章をだらだら書き続けるのにハマった時期があって、今でも時々それを読み返す。文章って、書いているときは結構無心というか、おもむくままに書いているようなフシがあって、読み返してみる番になって初めてそのときの自分の考えていた事とか、感情とか、気分とか、そういうものに気づく事が多い。そうか、僕はこの文章でこんなことを書きたかったんだなぁっていう気づき。まるで自分で自分をカウンセリングしているような感覚、そうやって考えるとやっぱり表現とか芸術とか音楽とかって素晴らしいものだと思う。

 

幸せについて

 僕は抽象的な物事に考えが行くことが多くて、人生とか死とか欲望とか希望とか、答えの出そうにない問いにどうしようもなく惹かれる。反面、カードの支払いとか保険のこととかキャリアだとか人脈だとかそういった現実的な事を考えるのがどうしようもなく苦手で、それで昔から疎外感を覚えがちだった。自分の考えていることが他人に理解されなかったらどうしようって今でもずっと思ってる。同級生たちはもう社会人になって何年もたち、立ち振舞もみんな大人っぽくなってきた。かっこいいクルマを買ったやつもいるし、結婚してるやつもいる、海外赴任に夢を膨らませてるやつもいるし、地元を離れて寂しそうにしてるやつもいる。みんな元気かな。みんなが幸せだったらそれでいいんだけど。幸せって、追い求めるものじゃなくて、気づくものなのかもしれないなって思う。成功とかお金とか家庭とかって、人によってはものすごく大事な事だし、僕もそういった価値観を尊重はしているけれど、それは幸せとイコールではないような気がする。確かにがむしゃらに何かを追い求めたり、掴んだりしようという姿勢はものすごく人の心を打つし、それがいろんな芸術とかスポーツとかの根本的なテーマになってるってのはわかるんだけど、追い求めるものはいつも手の届かない場所にあるし、掴んだと思ったものは、たちまち実体をなくして、指の間からこぼれ落ちていってしまうんだって、僕はそう思う。追い求め、もがき苦しみ、振り回されて、掴んだと思ったらまた失って、人生がただそういった事を繰り返してるだけなんだとしたら、なんだかむなしいような気もする。それよりも、自分が宇宙に、地球に、日本に生きているという奇跡を、何十億という仲間たちや、動物たち、自然によって生かされているという事実を、僕たちを超えた何らかの存在、仮に神と名付けたとして、その神の奏でる壮大な音楽で僕たちはただ踊っているという不思議を、もっともっと実感したいし、感謝したい。それは今すぐにでもできる事だと思うし、それが幸せへの手がかりなんじゃないかと思う。僕みたいな人間が時代がどうのこうのっていうのはなんだか気が引けるけど、これからの時代は、心と幸せの時代なんだと思う。みんなが現代の競争社会とか、資本主義とかっていう(不自然な)価値観から離れて、幸せについて考えてみなければ、人類に未来はないと思う。なんだか大げさな話になっちゃったけど、この事についてはもっともっともっと真剣に考えてみないといけないな。

 

 

 パタパタとタイプを続けて、気がつくと結構時間が経っていた。たまには何も考えずに書き始めてみるのもいいな。普段ぼんやりと考えていることが言葉になる瞬間って気持ちいいし、楽しい。誰が読んでくれるかわからないけど、今日はマックブックのメモ帳に保存するだけじゃなくて、ブログで公開してみる事にするよ。