<そうめん屋>と髑髏の話
わたしはこの季節になると<そうめん屋>の事をよく思い出す。わたしが幼かった頃、<そうめん屋>は毎日決まった時間にやってきてはそうめんを売っていた。
”おいしいそうめんあります”
それが<そうめん屋>の出していた唯一の看板だった。
几帳面な学者*1が記録したカタツムリの足跡のような字で書かれた貧相な看板だったが、わたしはそれも含めて<そうめん屋>を愛していた。
わたしは<そうめん屋>のそうめんが好きだった。両親は気味悪がって<そうめん屋>には近づきたがらなかったが、わたしがどうしてもというと結局は<そうめん屋>のそうめんを買い与えてくれた。
この話をすると彼女はいつも決まってこう言う。それがなんだっていうのよ?今日も彼女はまつげの手入れに余念が無い。数年前、彼女は自殺未遂を起こして入院した事がある。
<そうめん屋>はある時を境に姿を消してしまった。残されたのは例の看板だけだった。
”おいしいそうめんあります”
わたしが<そうめん屋>の事を思い出す時、そこには郷愁やノスタルジーといったような特別な感情がある。ああ、<そうめん屋>…
<そうめん屋>はなくなってしまったのだ。
ところで、髑髏の話。これは自殺未遂で入院している彼女を見舞いに行った時、隣で寝ている患者の本棚から拝借した本に書かれていたものだ。
「あるとき荘子が楚の国に旅をしていると、道ばたに髑髏がころがっていた。荘子これをひろって宿屋につき、枕がわりにして寝ると、髑髏が夢の中にあらわれて告げた。『死の世界には君臣といったわずらわしい関係もなく、寒暑に苦しめられるといったこともない。ただ、のんびりと天地の無限の時間を楽しく暮らすばかりだ。王者の楽しみも、死の世界の楽しみにまさるものではない』と。だが荘子はそれを信ずることができなかったので、『運命の神に頼んで、お前を生き返らせてやろうと思うが、どうかね』といったところ、髑髏は顔をしかめて、『とんでもない。王者の楽しみをすてて、また人間世界の苦労をくりかえすなど、まっぴらごめんだ』と答えた」(至楽篇) 森三樹三郎「老子・荘子」
ふむ!
わたしはこの話が気に入って、事あるごとに彼女に聞かせてみたが、彼女の返事はいつも同じだった。それがなんだっていうのよ?
<そうめん屋>から手紙が届いたのは先週の金曜日の事だった。
”おいしいそうめんあります”
ところ 愛知県豊田市xxx町xxx番地
翌日、わたしは彼女を連れて宿題の無い夏休みを控えた小学生のような気持ちで手紙に書かれた住所に向かった。田んぼだらけの開けた土地の真ん中に、体育館のような倉庫のようなバカでかい灰色で質素な建物があった。たしかにここで間違いない。わたしは彼女と共に古びた鉄製の引き戸を開いた。
中はからっぽだった。
何も無かった。文字通りのからっぽ、がらんどう、ネジ一つ落ちていなかった。わたしはあっけにとられてしばらく言葉を失っていた。
どうなってんのよ、これ!彼女がイライラした様子で吐き捨てる。ねぇ、何か言ってよ、どうなってんのよ、これ!
「さぁ、わからないよ」わたしは言った。
なんなのよそれ、何のために私達わざわざここまで来たわけ?
「わからない」わたしは言った。本当に何もわからなかったのだ。
そのようにして、わたしは何の手がかりも得ることなくとぼとぼ家に帰ってきた。<そうめん屋>は一体どこへ行ってしまったのだ?わたしは今日も彼女に<そうめん屋>の話を聞かせる。彼女はこう言う。それがなんだっていうのよ?