We (don't) know what we've got.

 僕の父の父は僕が小学校四年生の時に死んだ。悪化した肺がんが心臓にまで侵食してきて、最後は相当な苦痛の中死んでいったらしい。「煙草が吸いたいわけじゃない、煙草をつける火が見たいだけなんだ」そう言いながら父の父はいつも煙草を吸っていた。「火が見たい、だなんて嘘ばっかりついて、あの人は最後まで煙草をやめられなかったわね」葬式の時、父の母はハンカチで目元を拭いながらぼそっと呟いた。僕は真っ白な棺桶の中で横になっている父の父の姿を見た。それは精巧にこしらえた偽物のように見えた。本当にこれは死んでいるのか?当時の僕はまだ人が死ぬという事を実感として飲み込むことができなかったのだ。僕は奇妙にのっぺりした父の父の死体を前にして、底のない大きな穴をまっすぐ覗き込んでいるような深い虚無感を覚えた。音もなく僕に近づいてきて、ゆっくりと僕を捉え、逃げる間もなく飲み込まれてしまう、そんな虚無感だった。怖くなった僕は助けを求めて父の姿を探した。父は僕のすぐ後ろにいた。僕は父の存在に深い安心感を覚えた。だが、その時の父はいつもと少し様子が違っていた。父は泣いていたのだ。僕は、その時初めて父の涙を見た。

 

 父の涙を見た時、正直なところ僕は少し驚いた。なぜなら僕は父と父の父が決して良い関係では無いことを感じ取っていたからだ。僕は物心付いた時から何度も父の実家に連れていってもらったことがあるが、父の実家で父はなぜだかいつも居心地悪そうにしていた。父の両親を連れてご飯を食べに行く時も、父の両親に新しい冷蔵庫をプレゼントした時も、父は僕のよく知っている父とは少し違う、どこかぎこちない空気を放っていた。父の父も、父に対してどこかよそよそしいような、気を使っているかのような素振りをよく見せた。二人の間にはかつて何かあったのかもしれない、しかしそれが何なのか僕にはさっぱり見当もつかなかった。いつも父は古く色あせたジッポーで煙草に火をつけた。僕は無口な父のその仕草を眺めるのが好きだった。父の手の中でたっぷりと揺れるジッポーの火は西部劇のカウボーイみたいに強く、頼もしく見えた。そんな父のジッポーの火も、父の父の前では弱々しく萎れていた。その微かな光は、寒い夜の雨に打たれた野良犬の眼差しや、遠い昔に忘れ去られた記憶の残骸のような孤独なイメージとなって、僕の心にいつまでも残り続けていた。

 

 「飽きるくらいの時間一緒に過ごしてきたはずなのに、あなたの中の決定的な部分に、私はついに触れることが出来なかったわ」

僕もそれなりに歳をとって、何人かの女と関係を結んでみた事もあったが、彼女達は最後にはいつも同じような事を言って僕のもとを去っていった。僕の中の決定的な部分?そんなことを繰り返すうちに僕は人と関係を築くことに深い興味や感動を覚えなくなった。ルーティーンのように仕事をし、日常をただの苦役として受け入れ、消費するだけの日々が何年も続いた。ベッドに横になり、眠りにつくまでの僅かな間に思い出すのはいつも、あの日見た微かな光と、孤独なイメージだった。僕の中でそのイメージはどんどん膨らみ、次第に現実にまで影響を及ぼすようになっていった。

  

 僕の中で孤独なイメージが膨らんでゆくのと共鳴するように、父もその孤独をより一層深めていった。そして、その孤独は僕と父の間に埋めがたい距離を作り上げた。老いは煙草のヤニと共に父の身体にべったりとこびり付き、関節の動きを鈍くした。諦めにも悟りにも似たため息は重たい埃になって父の周囲に堆積していった。母はこの重く積もった埃を清めようと、ささやかな家族の思い出や、笑い声や、希望を寄せ集めて作ったほうきとちりとりで毎日せっせと掃除に励んだが、それもほとんど無駄な努力に終わった。いつの間にか、全てが父の放つ圧倒的な孤独に飲み込まれかけていた。灰皿、アルバム、レコードプレイヤー、カーペット、机、ソファ、ベッド、廊下、そして家全体が、重たい埃の中に埋もれて、かつての輝きを失ってしまっていた。僕はどこかの時点で何か手を打つべきだったのだ。手遅れになる前に、父の周りに堆積した重たい埃を、なんとしてでも排除するべきだったのだ。しかし、その方法は僕には全くわからなかった。どうすればいいんだ?重たい埃は僕の中にまで降り積もり始めていた。

 

 ある日僕は幽霊を見た。僕が仕事から帰り、玄関を開けると、幽霊は父の部屋の前で煙草を吸っていた。わたしが今から何をしようとしているのか、君にはわかっているはずだよ。幽霊は僕にそう語りかけてきた。「父を殺さないでください、僕にはまだやり残した事があるんです」僕がそう言うと幽霊は笑った。殺す?わたしは殺さないよ、それはわたしに決められる種類の物事ではないからね。ただし、お父さんを救いたいのなら、それは君にしかできない仕事になるだろうね。僕が父を救う?一体この幽霊は何を言っているんだ?僕はこの幽霊を信用していいのかわからなかった。あれこれ考えている時間はないと思うがね。お父さんは思ったよりも危険な場所に居るんだよ。それに、わたしももう行かないと。そういうと幽霊は煙草を消し、指をパチンと鳴らした。世界が大きな音を立ててぐらぐらと揺れ始めた。僕は壁につかまり、倒れないようにするだけで精一杯だった。揺れはどんどん酷くなった。自分が立っているのか、宙に浮かんでいるのか、掴まっているのが床なのか壁なのかもわからなくなった。ひどい吐き気がして、僕は思い切り嘔吐した。さぁ、ここからは君が一人で行くんだ。そして、必ずお父さんを助けるんだよ。ようやく揺れが収まると、父の部屋の扉が静かに開いた、幽霊はもう居なくなっていた。

 

 父の部屋に入ると、父は一人で椅子に座っていた。焦点の定まらない目で、ぼんやりと壁を見つめている。部屋には僕の腰の辺りまで重たい埃が積もっていた。僕は父がもう死にかけていることを悟った。僕は父に近付こうとして歩み寄るが、どれだけ歩いてみてもその距離が縮まる事はなかった。僕はなおも父に近づこうと試みるが、走っても、ジャンプしても、父との間の距離を埋めることができなかった。出来の悪い夢を見ているような気分だ。大声で父を呼んでも、手を振っても、父には何も届いていないみたいだった。僕の事なんて最初から見えていないかのようだった。僕には父を救うことは出来ないのかもしれない。そう思った瞬間、途方もない無力感が僕を襲った。僕はため息をついた、すると、ため息は重たい埃となって僕の周りに堆積し始めた。僕は自分の体が孤独に支配され始めている事に気づいた。しかし依然として、父との距離を埋める方法はわからなかった。ため息をつくたびに重たい埃が僕と父の間に降り積もっていく。だめだ、僕にはどうすることも出来ない。こうして僕は無力感と絶望感に囚われたまま年老いて死んでいくのだ。そうだ、それが僕の運命なんだ。頭から血がさぁっと引いていく嫌な感覚があった。視界が揺れ、脂汗が垂れ、全身から力が抜けた。眠りたい、いっそこのまま眠ってしまいたい。一人にしてくれ、僕は一人で静かに死にたいんだ。ひんやりとした孤独が僕の身を浸す。父の姿が現実なのか幻なのか、いつしかその区別すら出来なくなった。薄れゆく意識の中でふと目を閉じると、遠い昔に忘れてしまっていた記憶の残骸が、微かな光となって僕の脳裏に甦った。

 

 僕の父の父は僕が小学校四年生の時に死んだ。悪化した肺がんが心臓にまで侵食してきて、最後は相当な苦痛の中死んでいったらしい。「煙草が吸いたいわけじゃない、煙草をつける火が見たいだけなんだ」そう言いながら父の父はいつも煙草を吸っていた―――

 

 ―――火が見たいだけなんだ。

 

 胸のポケットに微かな重みを感じた。ポケットに手を触れると、金属のような重いかたまりが入っていた。僕は胸のポケットからそのかたまりを取り出した。それは昔父がよく使っていた古く色あせたジッポーのライターだった。どうしてこんなところにこのジッポーがあるんだろう?僕はそのジッポーをよく点検してみた。すると、隅の方に小さく誰かの名前が刻印されていることに気がついた。知らない名前だった、だが、名字は僕のものと同じだった。火を灯すんだ。どこかから声が聞こえた気がした。僕はジッポーの蓋を開けた、カシャンという小気味良い音が鳴ると、重たい埃が少しだけ僕の周りから後退した。ホイールに親指をかけ、力を込める、ホイールを回すと、フリントが火花を立て、オイルの滲みた芯に引火する。僕の手の中で、たっぷりとした火が揺れる、それはいつか見た西部劇のカウボーイみたいに、強く、頼もしい光だった。

「お父さん」僕はジッポーの火を灯したまま、父を呼んだ。父はゆっくりとこちらを向いた。

 僕は父のもとへ歩いていった。重たい埃は火の光を避けるように消えてゆく。一歩一歩着実に、距離が縮まっているのがわかった。

「お父さん、助けに来たんだ」僕は父の前でジッポーの光を揺らす。父の目に、再び暖かな光が宿るのが見えた。

「さっき、おじいちゃんに会ったんだ」

そうだ、あの幽霊は父の父だったんだ。鼻の奥がつんとした。眼の前がわずかに滲んだ。

「僕らは一人ぼっちなんかじゃないんだ」

涙がこぼれた。涙が降り積もった重たい埃を溶かしていった。

「だから、一緒に行こう、孤独に飲み込まれちゃだめだ」

 涙と鼻水の混じった声でなんとかそう言い終えると、父の周りの重たい埃は跡形もなく消え去ってしまった。そして、ジッポーの火もいらないくらい、父の部屋は明るさを取り戻していた。僕はもう一度父の顔を見た。父は泣いていた。父の父の葬式の時と同じように。

「ありがとう」と父が言った。深く温もった声だった。

「お前に、伝えないといけない事があるんだ」

父は何かを思い出したように呟いた、そして、ゆっくりと語り始めた。

 

 ありがとう、お前に、伝えないといけない事があるんだ。だがその前に、そのジッポーの話をさせてくれ。それは親父の親父の親父、俺たちの一族が始まるのと同じくらい昔から代々受け継がれてきたものなんだ。俺が家を出ていく時、親父が俺にそのジッポーをくれた。「お前はもう気付いているかもしれないが、わたし達の一族は代々、致命的な呪いを背負ってしまっている。それはわたし達の肉と心を蝕み、死に至らしめる呪いだ。このジッポーには、呪いを解く力があると言い伝えられてきたのだが、わたしの父親も、その父親の父親も、結局呪いを解くことは出来なかった。このわたしにも、その呪いは解けなかった。わたしは呪いに負けたのだ。間もなく呪いがわたしの肉と心を食い尽くし、わたしは死ぬだろう。その前にこのジッポーを受け取っておくれ。どうか、わたし達の呪いを解いて、一族の、わたしの、そしてお前の魂を救ってくれ」そういって親父は呪いを受け入れた。俺は親父を助けたいと思ったが、もうそれは不可能だった。日に日に親父は孤独を深め、弱っていった。喋ることもほとんど無くなった。唯一、お前を連れて行ったときだけ、辛うじて元気な姿を見せてくれた。俺は必死に一族の呪いの秘密を解き明かそうとしたが、時間が足りなかった。親父の前でジッポーの火をつけても、何も起こらなかった。そうこうしているうちに親父は死んでしまった。お前も覚えているだろう?あの葬式の日の事を。俺は何も出来なかった、親父を助けられなかったんだ。俺は絶望と無力感に支配され、ジッポーもどこかにしまいこんだまま失くしてしまった。そして、寒くて暗い魂の闇夜が俺を覆い尽くした。お前も見ただろう?ため息をつくたびに降り積もる重たい埃を。俺はあの積もった重たい埃の中でじっと考え込んでいた。そして今、ようやく見つけたんだ、一族の呪いを解く方法を。お前が灯してくれたジッポーの火が思い出させてくれた。よく聞いてくれ、この呪いの正体は―――

 

  そう言いかけた瞬間、重たい埃が父の喉元から溢れ出した。とめどなく溢れ出る重たい埃は瞬く間に父を覆い尽くした。僕が何も出来ずに立ち尽くしていると、部屋の底から音もなく重たい埃がせり上がってきて、一瞬にして僕を飲み込んだ。何も無い父の部屋で目が覚めた時にはもう全てが終わってしまった後だった。重たい埃は、僕の中の決定的な部分に、消し難い呪いを刻み込んでいった。

 

 僕は父を救えなかった。僕は父から、そして父の父から、さかのぼれないくらい昔から続く確かな呪いを受け継いでしまったのだ。僕はこの呪いを解かなければならない。僕のために、父のために、父の父のために、そしていつか生まれるであろう僕の子供達のために。だが、どうやって?方法は依然としてわからないままだった。僕は古く色あせたジッポーに火をつける。僕の手の中でたっぷりと揺れるジッポーの火は、僕を慰めも励ましもせず、ただゆらゆらと、いつまでも僕の目の前を淡く照らし続けていた。