金魚中毒

こんなところに<金魚屋>があったなんて、わたしは全く知らなかった。

わたしはこの街にやってきてもう20年になる。

職場に向かう途中にあるこのうらびれたシャッター街を、わたしは毎日のように通る。

しかし、<金魚屋>の事は全く知らなかった。

こんなところで新しく商売を始めるなんてどうかしている、と最初は思ったのだが

<金魚屋>に貼ってある色あせたピースボートのポスターや、錆びた看板などを見ると、どうやら新しい店ではなさそうだった。

わたしは<金魚屋>の前でしばらく立ち尽くしたまま、暗い店内の様子を伺っていた。

金魚鉢の中で小さな金魚たちがゆらゆらと泳いでいるのが僅かに見えた。

わたしは、何故か<金魚屋>の前を立ち去ることが出来なかった。

そしてわたしは、罠にかかった哀れな羽虫のように、ふらふらと<金魚屋>の中に入った。

 

   ***

 

店内の壁には同じような大きさの金魚鉢が所狭しと並べられていた。

その金魚鉢と、金魚鉢の中の金魚たちが、僅かな光を反射して怪しく光っていた。

「旦那ぁ、金魚は初めてですかい?」

<金魚屋>の店主がわたしに話しかける、捨てられた用水路の底に溜まったヘドロのような声だった。

「初めてでしたら旦那ぁ、お代はいりませんぜ、タダで一匹、こいつを差し上げましょう。」

店主はニタリと笑い、金魚の入った小さな金魚鉢をわたしに差し出した。

その金魚を見た途端、わたしは何も考えられなくなってしまった。

その金魚は、あまりにも美しすぎたのだ。

「綺麗でしょう?うちの金魚は他とはまったくまったく違うんでさぁ、鱗のテリ、瞳のツヤ、優雅なヒレ、ピチピチの身体、どれをとっても超超一級品でさぁ。旦那ぁ、旦那ほどラッキーな男はこの世に二人として存在しませんぜ。こんな一級品の金魚、タダでは絶対手に入りやせん。」

店主の言っていることはほとんどわたしの耳に入らなかった。

早くこの金魚と二人きりになりたい。

わたしにはその事しか考えられなくなっていた。

「ただし、一つだけ大事な注意事項があるんでさぁ、この金魚を絶対に名前で呼んではいけやせんぜ、名前で金魚を呼んだりすると、旦那の身に危険が及ぶ事になるんでさぁ、そうなっちまったらもう、ウチではなんともできやせんからね、くれぐれも気を付けてくだせぇ。」

わたしのはやる気持ちをよそに、店主はニタリと笑いながらそう言った。

わたしは返事もろくにしないまま、足早に<金魚屋>を後にした。

 

   ***

 

それからというもの、わたしは寝食も忘れその金魚を眺め続けた。

どれだけ眺めても飽きることがなかった。

その鱗はナミビアの砂漠を染める夕陽のように照り輝き。

その瞳は深海よりも深く、宇宙よりも広大にわたしの心を見透かし。

そのヒレイスタンブールの踊り子が身につける妖艶なドレスのように舞い。

その身体は優秀な指揮者のように、それら全てを自在に操り、見せる景色を変え続けた。

この美しい金魚は、わたしにありとあらゆる快感と悦楽をもたらした。

わたしはいつしか仕事に行くのをやめた。

金魚に与えるエサ代だけが、日に日に増えていった。

この金魚は、一日でとてつもない量のエサを食べた。

しかしわたしは、そんなことも気にしなくなっていった。

わたしは金魚にエサを与えた。

金魚はわたしに美しい幻を見せた。

わたしは金魚にエサを与えた。

金魚はわたしに美しい幻を見せた。

ある日金魚は、幻の中でわたしにこう言った。

「私の名前はユーディット。」

「ユーディット」わたしは金魚をそう呼ぶことにした。

「この名前を見つけたのはあなたが初めてよ」ユーディットはそう言った。

 

   ***

 

ある日、わたしが<金魚屋>にエサを買いに行くと、店主がニタリと笑いながら話しかけてきた。

「旦那ぁ、最近様子が変ですぜ?髪もボサボサだし、髭も伸びっぱなしだぁ、身体だって痩せこけちまってる、何かあったんで?」

わたしは何も言わず店主に金を渡した。

金を渡す手が震えて、小銭がチャラチャラと地面に落ちた。

「おっとぉ、大丈夫ですかい?旦那ぁ、まさかとは思いますが、金魚に名前を付けたりはしてないでしょうね?そうなっちまったら、ウチとしてももう終いでさぁ」

わたしは店主からひったくるようにエサを受け取り、逃げるように店を出た。

震えと冷や汗が止まらない、早くユーディットに会わなければ。

部屋に戻ると、部屋中が水浸しになっていた。

わたしは異変を察知した。

焦りがわたしの胃をきつく締め上げた。

金魚鉢の中にはユーディットは居なかった。

部屋中を探したが、ユーディットはどこにも居なかった。

消えてしまったのだ。

わたしは身体の力を失い、水たまりの中に倒れ込んだ。

水かさが増してきていたが、起き上がる力はわたしにはもう残っていなかった。

わたしは最後の力を振り絞りユーディットの名を叫んだ。

しかし何も起こらなかった。

やがて水がわたしの気道を満たし始め、わたしの意識はゆっくりと薄らいでいった。